▼ 8月15日と米内さんのこと
===引用ここから===
晴れた暑い日であった。自動車も動かず工場も操業していないので、空が青くよく澄んでいた。放送が終ると、米内は左隣に汗をうかべて立っている豊田(とよだ)軍令部総長に
「よかった」
と握手を求め、真昼の夏空を見上げながら首を二、三度振って、別に重い足取りという風でもなく大臣室の方へ帰って行った。(阿川弘之「米内光政」より)
===引用ここまで===
1945年8月15日の情景です。
昭和15年に半年だけですが総理大臣をつとめ、日本海軍最後の海軍大臣となった米内さんに興味をもったのは春先のこと。きっかけは忘れてしまったけれど、同じ阿川弘之が書いた
「井上成美」を読む機会があり、海軍という組織のなかでとにかく持論を通し、一部の人からは「国賊」などと呼ばれながら昭和20年、帝国海軍が任じた最後の海軍大将になった人と知ってすごく共感を覚えたのがきっかけでした。
私はもちろん凡人で井上さんのように優秀なわけではないし、自分にあれほど厳しくもないけれど、理屈の通らないことは大嫌いだし、「空気」に流されて組織のなかで長いものに巻かれるのも好きではないので思ったことを言ってしまい気まずくなることが以前は多かった。
よって、一般的には「使いにくい」とされる個性的すぎる人材を、部下としてきっちり使った、上司の米内さんという人に非常に興味をもちました。というわけで流れで読みました。
読み終わるころには、阿川さんが取材した部下たちがほぼ口を揃えて絶賛する温和で円満なキャラクターの持ち主であり
「佐世保駅のプラットフォームが芸者で埋(うずま)るようであったという」
とその道のプロである花柳界のおねいさんたちのハートをがっちり掴み、昭和13年の段階で、雑誌の「当世男十傑」に「米内海相。美男子」などのコメントをもらってランクインするなど「かっこいい」男でもあったということで、米内さんのことをもっと知りたくなっていました。
が。
とりあえず軽くググってみたらば。検索結果より上に……
他のキーワード:米内光政 スパイ 米内光政 フリーメーソン 米内光政 身長 米内光政 色紙 米内光政 記念館
え………(^^;
ということで、その後いろいろ本を読んだりネットを彷徨ったりして、ファンの人と同じかそれ以上にアンチの人も多い、評価がまっぷたつに分かれている人物と判明。
ただ、これまでに当たった本やウェブサイトの困ったところは、贔屓もアンチもどちらも極端なんですよね…。
と思って再読してみますと、阿川さんの本も当然、かなり贔屓入っています。まぁ、比較的近著の
では「アル中」なんて書いてるくらいですけどもw
「井上成美」ではけっこう井上さんに辛口のことを言っている人のことばもたくさん収録していることを考えると、米内さんのことを悪く言う人は相対的に少なかったのだとは思いますが。
阿川さんの本でのちのち、ちょっと…と思ったのは最初に考えていたよりも、緒方竹虎の書いた「一軍人の生涯―回想の米内光政」からイタダキしちゃってる記述が、きちんと引用している箇所よりも実は多いことです。
米内さんは昭和23年に亡くなっているから、たどれるネタ元が限られるのはわかってるんだけど。
例えば米内さんが亡くなったときの記述。
「遺骸の眼はくぼんで皮膚は枯れ、目立つのは太い骨組ばかりであった」(阿川本文庫版619ページ)
の描写に初めて読んだときは思わず息を呑みましたが
「あの初めて海軍大臣に就任した頃の豊頬の見る影もなきは勿論、眼窩はくぼみ皮膚は枯れ、人並み外れて逞しい骨組のみが徒らに目立つて見えた」(緒方本〈初版267ページ〉)
あれれ……
「贔屓系」の本には今度は阿川さんの本からそのまま引っ張ってきたような描写や記述があったりして。
アンチさんたちも、誤字までそのまま引っ張った、他者の書いた米内さん攻撃の文書をそのままウェブに上げてたりして(どこが震源地なのかはわからないけど)。
アンチさんたちに特徴的なのは、特定の書籍1冊だけを挙げて米内愚将論を書いているか、資料を明記せず、伝聞らしきものを断定口調で「ソ連のスパイ」「アメリカの手先」と断じていることですね…
専門家ではないので調べるリソースも時間も限界はあるけれど、もっと深く調べるにはやはり、一次資料に当たるしかないのかなと最近思い始めているところです。
個人的にはスパイ説とか、フリーメーソンの陰謀とか言い出すとそれですべてそこがオチになっちゃう気がするので、その立場には立ちたくないんですよね。
そもそも、本当にアメリカのスパイなのに、最高血圧260とかで海軍大臣務め続けるとか、そこまで「親米」に徹することができるというのはむしろ不自然なのではないかと思ってます。
検索しているうちに興味深い画像を見つけました。1938年(昭和13年)から1945年まで内閣情報部が発行していた「写真週報」という雑誌があるのですが、ここには木村伊兵衛や土門拳などがカメラマンとして参加しています。
で、木村伊兵衛が撮影した米内さんの1938年の写真があります。
米内さんの写真はかなりWikipediaの米内さんの項で網羅されています。
あるいは、雑誌「TIME」の表紙だったり。昭和のはじめまでは比較的地味だったとされているわりに、TIMEの表紙は海軍大臣になったときと首相になったとき、2度も飾ってるんですよね。
1937年8月30日号 (海相就任時)
1940年5月4日号 (首相を退陣するほぼ1カ月前)
一方、「写真週報」の画像は、見つけにくいところにあって、通常の画像検索では見つかりません。
「写真週報」に撮影者として登場する著名人(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
→ページのまんなかあたりにいらっしゃいます。
一般によく知られている米内さんの写真は礼装のおすまし写真ですが、さすが木村伊兵衛。左の口角をちょっと上げた、見たことのない表情で写っています。
それが、Wikipediaの画像に戻って「小磯内閣で海相を務める」「鈴木内閣で海相に留任」あたりの画像を見ると、本当に別人のようにやせてしまっています。
ホントに敵国を利するようなことを恒常的に続けていた(=スパイ)人が、食糧は配給以外まったく手を出さずやせ細るほど自分を律することができるんでしょうか?答えは否だと私は思っています。
動機がない、と思う。
米内さんが配給以外の食糧を食べていなかったことは当時広く知られていたようで、帝銀事件について書いた坂口安吾の文章の中にこんな記述がありました。
===ここから引用===
私は政治家が、政治家的ルートによって暖衣飽食していることをとがめたいとは思わぬ。むしろ暖衣飽食すべきだと思う。かつての米内大将のごとくに、ゾースイをすすり、国民に範をたれるのも、その人格の高潔なる、まことに有難いことだけれど、しかし、政治は清貧を事とする無策なものでは困るのである。(「青空文庫」坂口安吾 帝銀事件を論ずより)
===引用ここまで===
現時点までの知識では、やはり米内さんは日本敗戦のダメージを最小限にするために奔走した人、ということで日本人は覚えておいてもよい名前ではないかと思っています。
とはいえ、本土決戦を訴える陸軍との落としどころに苦慮していたのはわかるけど多数の死者が出ている原爆投下について
「言葉は不適当だと思うが、原爆やソ聯の参戦はある意味、天佑だ」
という意味の発言をしたというのは、ちょっとナイな…と思うし、軍令部との関係が統帥権の問題が絡んでいるのは承知だけど、予備役から復帰して小磯内閣の海軍大臣になってから、神風とか回天とかの特攻が始まっていることについても、軍政の部分から手をこまぬくことしかできなかったのか。きわめて疑問です。
米内さんに直接部下として接した人たちの証言を読むと、部下への思いやりがすごくある人なんですよね。そんな人が、人間を兵器とする、それも、成功率が低い兵器が作戦として使用されることに心が痛まないはずがないのですが…。
人事とか、さわれなかったんでしょうか?
あと、上にリンクを貼った写真週報の記事でも、もちろんこの雑誌がプロパガンダ用のものであったことを考えれば当然とはいえ、けっこう中国戦線に関して勇ましいことおっしゃってます。
確かに、日独伊三国同盟に関しては山本五十六と暗殺の危険も顧みず全力で反対したのは事実だと思うし、対米戦に関しては「日本の海軍は米英と戦争するようにはできていない」と言いきってますが、じゃ、中国への侵略について、上海駐留の第一遣外艦隊の司令官も務めた米内さんはどう考えていたのかはもうひとつ見えてこないように思います。
それと、数日前に放送があったNHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」の最終日のラストにちらっと、国體護持(昭和天皇の保護)のために奔走した米内さんが少し紹介されていました。
番組のトーンは、天皇の戦争責任をナシにするために、海軍省(のちに第二復員省)が陸軍側だけでなく、海軍の第一線にいた人たちに責任を押しつける工作を組織をあげてやってた、という感じで。
これもまた、可能なら何らかの形で検証したい…。
戦争が終わって64年、新しい資料などはなかなか出てこないとは思いますが、これからも細々、米内さんを追いかけていきたいと思っています。
とても米内さんスキスキビーム満載の本を書いている高田万亀子さんみたいに「美人間」なんていう持ち上げ方はできないですが、読書家であり、自分が思ったことをきちんと書き留めていたりしていたのも共感できます。そうした書きものの多くが空襲などで焼失してしまったとされているのは本当に惜しい。
終戦といえば、最近こんな本を読みました。
ドナルド・キーンってやはりスゴイ人です。また機会があったら感想を書きます。
晴れた暑い日であった。自動車も動かず工場も操業していないので、空が青くよく澄んでいた。放送が終ると、米内は左隣に汗をうかべて立っている豊田(とよだ)軍令部総長に
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1945年8月15日の情景です。
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「井上成美」を読む機会があり、海軍という組織のなかでとにかく持論を通し、一部の人からは「国賊」などと呼ばれながら昭和20年、帝国海軍が任じた最後の海軍大将になった人と知ってすごく共感を覚えたのがきっかけでした。
私はもちろん凡人で井上さんのように優秀なわけではないし、自分にあれほど厳しくもないけれど、理屈の通らないことは大嫌いだし、「空気」に流されて組織のなかで長いものに巻かれるのも好きではないので思ったことを言ってしまい気まずくなることが以前は多かった。
よって、一般的には「使いにくい」とされる個性的すぎる人材を、部下としてきっちり使った、上司の米内さんという人に非常に興味をもちました。というわけで流れで読みました。
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読み終わるころには、阿川さんが取材した部下たちがほぼ口を揃えて絶賛する温和で円満なキャラクターの持ち主であり
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とその道のプロである花柳界のおねいさんたちのハートをがっちり掴み、昭和13年の段階で、雑誌の「当世男十傑」に「米内海相。美男子」などのコメントをもらってランクインするなど「かっこいい」男でもあったということで、米内さんのことをもっと知りたくなっていました。
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ということで、その後いろいろ本を読んだりネットを彷徨ったりして、ファンの人と同じかそれ以上にアンチの人も多い、評価がまっぷたつに分かれている人物と判明。
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「井上成美」ではけっこう井上さんに辛口のことを言っている人のことばもたくさん収録していることを考えると、米内さんのことを悪く言う人は相対的に少なかったのだとは思いますが。
阿川さんの本でのちのち、ちょっと…と思ったのは最初に考えていたよりも、緒方竹虎の書いた「一軍人の生涯―回想の米内光政」からイタダキしちゃってる記述が、きちんと引用している箇所よりも実は多いことです。
米内さんは昭和23年に亡くなっているから、たどれるネタ元が限られるのはわかってるんだけど。
例えば米内さんが亡くなったときの記述。
「遺骸の眼はくぼんで皮膚は枯れ、目立つのは太い骨組ばかりであった」(阿川本文庫版619ページ)
の描写に初めて読んだときは思わず息を呑みましたが
「あの初めて海軍大臣に就任した頃の豊頬の見る影もなきは勿論、眼窩はくぼみ皮膚は枯れ、人並み外れて逞しい骨組のみが徒らに目立つて見えた」(緒方本〈初版267ページ〉)
あれれ……
「贔屓系」の本には今度は阿川さんの本からそのまま引っ張ってきたような描写や記述があったりして。
アンチさんたちも、誤字までそのまま引っ張った、他者の書いた米内さん攻撃の文書をそのままウェブに上げてたりして(どこが震源地なのかはわからないけど)。
アンチさんたちに特徴的なのは、特定の書籍1冊だけを挙げて米内愚将論を書いているか、資料を明記せず、伝聞らしきものを断定口調で「ソ連のスパイ」「アメリカの手先」と断じていることですね…
専門家ではないので調べるリソースも時間も限界はあるけれど、もっと深く調べるにはやはり、一次資料に当たるしかないのかなと最近思い始めているところです。
個人的にはスパイ説とか、フリーメーソンの陰謀とか言い出すとそれですべてそこがオチになっちゃう気がするので、その立場には立ちたくないんですよね。
そもそも、本当にアメリカのスパイなのに、最高血圧260とかで海軍大臣務め続けるとか、そこまで「親米」に徹することができるというのはむしろ不自然なのではないかと思ってます。
検索しているうちに興味深い画像を見つけました。1938年(昭和13年)から1945年まで内閣情報部が発行していた「写真週報」という雑誌があるのですが、ここには木村伊兵衛や土門拳などがカメラマンとして参加しています。
で、木村伊兵衛が撮影した米内さんの1938年の写真があります。
米内さんの写真はかなりWikipediaの米内さんの項で網羅されています。
あるいは、雑誌「TIME」の表紙だったり。昭和のはじめまでは比較的地味だったとされているわりに、TIMEの表紙は海軍大臣になったときと首相になったとき、2度も飾ってるんですよね。
1937年8月30日号 (海相就任時)
1940年5月4日号 (首相を退陣するほぼ1カ月前)
一方、「写真週報」の画像は、見つけにくいところにあって、通常の画像検索では見つかりません。
「写真週報」に撮影者として登場する著名人(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
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一般によく知られている米内さんの写真は礼装のおすまし写真ですが、さすが木村伊兵衛。左の口角をちょっと上げた、見たことのない表情で写っています。
それが、Wikipediaの画像に戻って「小磯内閣で海相を務める」「鈴木内閣で海相に留任」あたりの画像を見ると、本当に別人のようにやせてしまっています。
ホントに敵国を利するようなことを恒常的に続けていた(=スパイ)人が、食糧は配給以外まったく手を出さずやせ細るほど自分を律することができるんでしょうか?答えは否だと私は思っています。
動機がない、と思う。
米内さんが配給以外の食糧を食べていなかったことは当時広く知られていたようで、帝銀事件について書いた坂口安吾の文章の中にこんな記述がありました。
===ここから引用===
私は政治家が、政治家的ルートによって暖衣飽食していることをとがめたいとは思わぬ。むしろ暖衣飽食すべきだと思う。かつての米内大将のごとくに、ゾースイをすすり、国民に範をたれるのも、その人格の高潔なる、まことに有難いことだけれど、しかし、政治は清貧を事とする無策なものでは困るのである。(「青空文庫」坂口安吾 帝銀事件を論ずより)
===引用ここまで===
現時点までの知識では、やはり米内さんは日本敗戦のダメージを最小限にするために奔走した人、ということで日本人は覚えておいてもよい名前ではないかと思っています。
とはいえ、本土決戦を訴える陸軍との落としどころに苦慮していたのはわかるけど多数の死者が出ている原爆投下について
「言葉は不適当だと思うが、原爆やソ聯の参戦はある意味、天佑だ」
という意味の発言をしたというのは、ちょっとナイな…と思うし、軍令部との関係が統帥権の問題が絡んでいるのは承知だけど、予備役から復帰して小磯内閣の海軍大臣になってから、神風とか回天とかの特攻が始まっていることについても、軍政の部分から手をこまぬくことしかできなかったのか。きわめて疑問です。
米内さんに直接部下として接した人たちの証言を読むと、部下への思いやりがすごくある人なんですよね。そんな人が、人間を兵器とする、それも、成功率が低い兵器が作戦として使用されることに心が痛まないはずがないのですが…。
人事とか、さわれなかったんでしょうか?
あと、上にリンクを貼った写真週報の記事でも、もちろんこの雑誌がプロパガンダ用のものであったことを考えれば当然とはいえ、けっこう中国戦線に関して勇ましいことおっしゃってます。
確かに、日独伊三国同盟に関しては山本五十六と暗殺の危険も顧みず全力で反対したのは事実だと思うし、対米戦に関しては「日本の海軍は米英と戦争するようにはできていない」と言いきってますが、じゃ、中国への侵略について、上海駐留の第一遣外艦隊の司令官も務めた米内さんはどう考えていたのかはもうひとつ見えてこないように思います。
それと、数日前に放送があったNHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」の最終日のラストにちらっと、国體護持(昭和天皇の保護)のために奔走した米内さんが少し紹介されていました。
番組のトーンは、天皇の戦争責任をナシにするために、海軍省(のちに第二復員省)が陸軍側だけでなく、海軍の第一線にいた人たちに責任を押しつける工作を組織をあげてやってた、という感じで。
これもまた、可能なら何らかの形で検証したい…。
戦争が終わって64年、新しい資料などはなかなか出てこないとは思いますが、これからも細々、米内さんを追いかけていきたいと思っています。
とても米内さんスキスキビーム満載の本を書いている高田万亀子さんみたいに「美人間」なんていう持ち上げ方はできないですが、読書家であり、自分が思ったことをきちんと書き留めていたりしていたのも共感できます。そうした書きものの多くが空襲などで焼失してしまったとされているのは本当に惜しい。
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ドナルド・キーンってやはりスゴイ人です。また機会があったら感想を書きます。
- [2009/08/15 23:04]
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